九.心境について

九.心境について

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諸佛従心得解脱、心若解脱万事達。
千般万種心是種、是種也須心去種。
種到自性能起用、方知本来無需種。

【書き下し文】

諸仏は心従り解脱を得て、心もし解脱せば、万事は達す。
千般万種、心はこれ種なり、この種また心を須いて種を去る。
種自性に到り、能く起用す、方に本来種もとむる無しを知る。

【意訳】

古来、諸仏は全て、自己の心を修めることから始めている。心さえ修めれば、自ずと道が見え、円満になる。心はあらゆる物事の種で、心が働いて物事が行われている。心に優れた働きが起きれば、まさに心の力は万法を具えているのが分かる。

上乗大法(じょうじょうだいほう)(最も優れた大乗)の大法は、決まりもなく、次第もないのです。いっときの悟りが永遠に悟りになり、いっときの証しが、最終となります。

これらはまるで

一月普現千江水、千江水月一月摂。

【書き下し文】

一月(げつ)は普く千江の水を現し、千江の水月は一月に摂す。

のようであります。

禅者の眼には、而今しかなく、この時この刻だけがあります。いままで自分の望みを来世に寄託してなく、而今、このいっときの頓悟は究極であり、次第はないのです。此岸は彼岸であり、「一」は一切であり、瞬間は永久不変であります。修禅はもっとも単調であり、退屈でもあります。退屈を通すだけで究極に達せられ、退屈は一切の妄想を殺し、一切の智慧を湧出させ、智慧は退屈の中で生まれたもので、退屈には比較できない強大な浸透力が備わり、退屈は極限を超えられ、退屈によって成仏でき、退屈により人生を見通せます。

「非法非非法」の非法とは、法がなく、因果がないのです。また非非法とは、法がないことではなく、因果がないことでもなく、固定された法、固定された因果がないことです。法と果には、実でなく虚でなく、真でなく偽でなく、すべてはあなたの心の働き、あたなの行為によって決まるものです。

その無形無相の真我は、追求して得られるものではなく、追求すればするほど、現れなくなります。水中の月のようで、急いですくい取ろうとすればするほど、見えなくなります。立ち止って静観すれば、それはあなたの目の前に凝集してきて、一つの「真実」体になります。


空可空、非真空、真空不空、是真空、色可色、非真色、真色是無色、無色是真色。

【書き下し文】

空(くう)は空である可くも、真の空に非ず、真の空は空ならずも、これ真の空なり。
色(しき)は色である可くも、真の色に非ず。真の色は色無くも、色無しが真の色なり。
【意訳】

空の思いまでも全て放下してしまって、空に執着していない。、見ることのできる色も、やはり本当の色ではない。
「華厳経」で述べられるものですが、


水清月現、月本非来、雲遮月隠、月亦非去。
心清見佛、非是佛来、心垢不見、亦非佛去。

【書き下し文】

水清く月現れ、月本より来るに非ず、雲月を遮れば隠れ、月亦去るに非ず。
心清ければ仏を見、仏来るに非ず、心垢なれば見ず、また仏去るに非ず、
これらはまるで、


千江有水千江月、一月普現千江水、千江水月一月摂。

【書き下し文】

千江に水あれば、千江の月、一月は普く千江の水を現し、千江の水月、一月に摂す。

のようであります。

煩悩はもともと空であり、妄念はもともと無であり、一切すべては、真心(しんしん)の現れであれば、なぜ妄念と煩悩の説があるのでしょうか?すべては真心の現れであることを知らない故に、妄念と煩悩を立てて助け合い、あなたが真心を認識するのを助けます。仏を認識したければ、必ず魔力に依るべきです。


心生即種種法生、心滅即種種法滅、
法生也即心生、法滅也即心滅、
心不離法、法不離心、心若離法、心即無体、
法若離心、法自無生、心不自心、因境而顕、
境不自境、由心生境、境外無心、心外無境;
即境是心、即心是境、心境是一、亦不是二、
処処是境、境境皆心。

【書き下し文】

心生ずれば即ち種々の法生ず、心滅すれば即ち種々の法滅す、
法生ずればまた即ち心生ず、法滅すればまた即ち心滅す、
心は法を離れず、法は心を離れず、
心もし法を離れれば、心即ち体無く、
法もし心を離れれば、法自ずから生無し、
心自ずから心ならず、境によりて顕れ、
境自ずから境ならず、心より境が生ず、
境の外に心なし、心の外に境なし、
即ち境これ心なり、即ち心これ境なり、
心と境これ一なり、亦これ二ならず、
処々これ境なり、境々みな心なり。

その観照者、覚知者は、決して真我ではないのですが、真我から離れないのです。真我も無我なので、ただ方便のため仮に我と名付けるだけであります。また我を了知したのち、至る処はみな真我ですが、至る処は無我であります。わが家のその池の水が清浄になったのち、いつでも明月、すなわち真我に会うことができます。

妄念がなく、分別の心がないのに、どうして参禅するのでしょうか?真心は如如不動なので、参照でき、頼れるのは妄念と分別の心なのです。正知正見があれば、なぜ妄念を恐れる必要があろうか?

万物を放下し、三摩地の中にいるのは、決して空虚な感じではなく、明らかに虚空の中で一物もないのですが、頭脳を超越したその僅かな覚知はまだ存在しています。外からものごとを伝えてくると、この「空」の中に妙用(すぐれた働き)が生じ、ものごとに相応し、用いれば、すなわちあり、捨てればすなれちなくなり、見つけることもできず、捨てることもできないのです。空有は相応し、六虚(宇宙のあらゆる場所)に広まり、出没が一定でなく、鬼神でも測り知れないのであります。

「心」は一切のものごとを作り上げる種であり、未来の世界や涅槃の果のすべては、現在の心が作るもので、修行はその生産できる心を消滅しさえすれば、それだけでいいのです。現在の心があればこそ、未来の果に延長でき、現在の心がなければ、未来の果もないのです。現在の心は因であり、現量境(直接の知覚の境地)で分別の作用が起きなければ、未来の果も、それに頼って生じる処がないのです。

心は業力を広く収集する先鋒であり、集めたのち、浅くて第六識(分別判断と意識の総称)に貯蔵し、深くは阿頼耶(あらや)識(しき)(根元的な識の働き、潜在意識)に貯蔵し、来世に引き連れて受用します。貯蔵できるものと貯蔵するものが転化しなければ、たとえ百劫を経ても、なお果報を引きずられなければなりません。

分別の心がなくなったところで、その広大で、究極的なものを開けられます。これを仏経では「如来蔵(にょらいぞう)」と名付けています。小乗(上座説)の果位は、たとえ声聞乗の果位、小果羅漢(上座説の阿羅漢)のいずれも、分段生死(ぶんだんしょうじ)(肉体など一定の限界をもって輪廻すること)は片付いていますが、根本的な蔵識(阿頼耶識のこと)から転変してないのです。すなわち貯蔵しているものを転変していなかったので、根本的な生死は決して片付いていないので、ただ現在の貯蔵できる心を消滅しただけで、涅槃だと思い違いをしています。しかし以前に貯蔵してしたものを、いまだに転化してなかったので、しばらくは因縁が熟さずに、前世で貯蔵したものが現れていないだけで、私の業障はすでに消えた、果も円満に証した、これ以上巻き込まれることはない、と豪語するのです。一旦、深い因縁に出遭えば、無始以来の貯蔵された種は、まだ芽ぶくことができるので、いわゆる因縁成熟となるのです。修行の要点は、その貯蔵できる心を転化して無くしてしまうことです。

真の超越した人は、空、有、断、常、天界、地獄、男、女、罪、福ということに心を留めてはならないのです。超越した人は、人相、我相、衆生相、寿者相といったものはないのです。あらゆる一切は現在のこの分別心が存在してこそ、これらの現象があるのものです。修行することができる(能)のは現在のこの心であり、修行するところ(所)のものは依然としてこの心です。禅定のもっとも高い境地には、この「能、所」二つの心を遠(おん)離(り)しなければ、修行できる心はなく、修行する果もないのです。もしこのようにできれば、即ち現在のこの心を超越して、如来の大きな智慧を成就して、さまざまな習気をすでに切断して、真と妄はみな離して、一日じゅう三摩地に入っていれば、宇宙の山河大地のすべては、あなたの自性における現われであり、すべてはあなたの自性の投影であり、あなたの神通力で変化したものとなります。

肉体を捨てたのち、独立して存在するその形而上の本体は、仏や菩薩が共に証したものなのです。形而上の本体は万法を具足し、それは縁起を必要としないのです。それは無形でも有相であり、それは依らずして頼らず、増えずして減らず、それは智慧なくして愚痴かでなく、それは先天的にあるもので、諸法のすべては滅しても、それは破滅しないのです。それは精、気、神によって修練する必要がなく、精、気、神は、まだその中から来るもので、読経し、仏像を礼拝し、観想し、手印を結び、気脈を通じることのいずれもそれとは関係ないのです。

あなたがよりそのものを超越したいと思えば思うほど、「それ」はますます存在し、それを手放して自由にさせれば、それは自然に消えてしまいます。受け取るのは一種の超越であり、それに対抗するのは、その存在を認めるもので、かえって自分が止まって進まないように導き、受け取ることは一種の成長と成熟のもっとも速い法門であり、受け取ることによって、ただ内在のその無限の空間を開けることができ、絶対に空無の中に入るのを妨げることがないのです。世間と出世間のこの二筋の道は、もともと境界がないのですが、すべては頭脳で作り上げたもので、頭脳は無限の空間を恐れ、その広大な空無に入る勇気がないからです。これも、なぜ人は生まれるとすぐ、決って何かを握って頼ろうとするのか、という理由です。人々がもっとも恐れるのは背後ではなく、内在のその「知」なのです。この知のために、これまでその広大な、究極の未知を開けたことがなかったので、その無限の空無を見たことがなかったので、臨終にも、その未知への恐れは、免れ難いのでしょう。

「未知」は仏門の専用話に言い換えると「如来蔵」と言います。それは究極なもののすべては、その中にあるという意味です。これを受け入れることは、中に深く入れて、中の空間を発展させ、外側の枷や覆面を剥ぎ落すことを意味しています。人々が生活に疲れるのは、自分自身の枷をなくす勇気がないからです。覆面を多く被れば被るほど、安全になり、リラックスできると思って、ひいては夜寝ている時にも覆面を被ってしまい、朝起きるにも、どうしてよく休息できるのでしょうか?今日から、覆いを開けることと、回りの一切を受け入れることの会得を開始して、まわりの人、事、物、理が、またあなたをどうするのかを見てみましょう!

人々の煩悩の九十九パーセントは、分別から来たもので、多くのこと自体は、善悪、美醜という区別がないのですが、人間の本性は生まれついて、よく一つのことを分けて見て、あわせて区別するのを好み、そこで善悪、是非、美醜というすべてが現われてきました。天と地の間に現れたすべては、一種の存在であり、それら自体の善悪の区別はないのです。あなたはそれをひたすら体得して、利を受けてください。ただし、それに正しいか、間違いか、善いか、悪いかという帽子を被せてはいけないので、分別があると、それこそ業を作る起因となります。一つの天界に執着すれば、必ず一つの地獄を認めます。また一つの善に執着すれば、必ず一つの悪を成就させます。また一人の君子に執着すれば、必ず一人の小人を育て上げます。そして間違いはほかでもなく、分別すべきではないのです。分別は執着であり、執着は必ず業障を収集します。

釈迦牟尼が、法輪を以て仏教の象徴としたのは、極めて奥深い超然とした意味が含まれています。輪は軸を中心として回転しているもので、輪全体は回転しています。まだ中央の核心だけがあって如如不動であり、外側は無常であり、因果は輪廻しているもので、器世間(きせけん)(この世界と宇宙)にあるすべては無常であり、刻々に変動しているもので、この無常は、その常に不動の核心を中心として変化しているもので、すなわちその核心の中にある如如不動のものに支配されます。動いているものは不動のものから離れられません。不動は動を支配し、不変は万変に対応し、たとえ輪は一日に万里を行く能力が具わっていても、この如如不動の中軸から離れれば、なんにも出来ず、廃品になってしまいます。

生死輪転(しょうじりんてん)、六道輪廻のいずれも核心以外の輪を示しているもので、仮に、修練によって、その如如不動の核心に入っていれば、どこに生死輪廻の説があるのでしょうか?衆生のもっとも内在的な本質は、すべてその如如不動の中軸と一体のもので、外側の生死輪廻は、いままでその内在の核心、すなわち無常の中にある核心、つまり如如不動の(中軸)に入ったことがなく、入れるはずもないのです。その一方、歴史が重複して、人類も重複して、因果も重複して、重複も重複してますが,この中心点だけは終始して重複していないことを意味しています。

人はだれでも完璧な宇宙であり、人々と通じることができてこそ、宇宙と通じます。人は宇宙の一滴にすぎなくても、この一滴は宇宙のすべての属性や特徴を備えています。人体は四季によって変化し、四季は宇宙によって変化し、宇宙はまた人々の心の働きによって変化しているものです。宇宙の一周期、成(じょう)、住(じゅう)、壊(え)、空(くう)のいずれも人類が決めているものです。

一間の暗い部屋は、千年に渡って無明の中にあっても、電気をつけると千年の闇は一瞬に消えてしまい、この瞬間に、部屋の中にあるすべての家具ははっきり見ることができます。なぜ、ただ一見するだけで、全ての人生を質的に変化できるのを恐れ、あらゆる一切はもともと存在していて、これまで失ったことがないのに、まだ何を探そうとしているのでしょうか?

宇宙の存在は、一つの総体であり、この総体の中に「一」だけがあり、良し悪しがなく、生じることや滅することがないので、この「一」を得たのち、あなたが良いと思えば、この力は良い力になります。また悪いと思うならば、悪い力に変わります、この「一」の力は、心念の変化により変わります。

宗教を信仰するには、まず宗教を理解しなければなりません。理解しなければ、どのように信じるのでしょうか?理解しないで信じるのは、すなわち迷信です。仏教では確かに天界があると言われています。しかし、本当に重視しているのは即生(生きたままで)の天界であり、死後の天界ではないのです。天界と地獄はいずれも浄土であります。本当に修行している人は、生死を嫌わず、涅槃を愛さず、死後に解脱するのではなく、活きている時に、解脱するものです。宗教は死んだ後に使うのではなく、生前に使うのです。

およそ生活が愛で満ちあふれている人にとっては、誰でもとても美しいものを好み、とても友交を好み、このような人は一輪の生花のようで、随時によい香りを漂わせています。

真の慈悲は、決してちょっと言うだけではなく、行為で現わさなければなりません。行為のない慈悲は、真の慈悲ではありません。真の大悲心が生じていなければ、正等正覚を修得することができないので、仮に僅かな工夫を修得しても、やはり魔道に入って民衆に損害を与えます。

衆生はだれでも宇宙の霊魂であり、だれでも宇宙に代わって話をし、宇宙に代わって道を実践し、人道の思想に一致すれば、天道の思想に一致するようになり、さらに宇宙の法則に一致しています。

仏を学ぶこととは何か?自分を愛するように他人を愛することこそ、仏を学ぶ行為なのです。大悲心がない限り、仏を学ぼう、成仏しようとするのは不可能なのです。宗教を信じる人は、まず、国を愛し、家を愛し、まわりの人を愛さなければなりません。また行動のない慈悲は、真の慈悲ではありません。そして天道を修めたければ、まず人道を修め、人道を完璧に修めたならば、天道は自然に完成します。

大悲心のない人は、いつまでも相手を理解するすべがなく、彼は永遠に自分を閉じているので、ひいては自分自身のことも理解していないのです。このような人は、臨終に、業が軽ければ孤魂野鬼(ここんやき)(浮遊魂、無(む)縁(えん)仏(ぼとけ))になり,重ければ石になります。大悲心は、諸仏や菩薩と通じられる唯一の通路であり、大悲心の前は、愛を前奏としています。愛の心がなければ、大悲心もありません。大悲心がなければ、大悟しようがないのです。修行において、必ず心に衆生を抱いて、遠大な志を抱いて、忘我を用いて修行し、修練し、衆生を愛することです。

仏教では、慈悲そのものは愛から転化したもので、人生において愛がなければ、人間として生まれる意味を失ってしまい、生きて行くことができないのです。しかし、この愛は自発的であるからこそ、意義があります。努力によって得た愛は、もとからの意義を失ったのです。人の一生には、終始して、付き従っている愛、夫婦間の愛、子供の間の愛、事業の仲間の愛……があります。仮に、生活は無意味だという人がいれば、彼にはきっと愛の心がなく、愛が欠乏して、愛を渇望している、と私は断言します。愛は成長の必需であり、さらに修行の必需でもあります。

愛は仏ではなく、愛はただ仏の中に踏み込む一つの敷居なのです。この敷居を越えたところで、仏を見られ、仏になることができます。

愛に何かよくないことがあるのでしょうか?愛は聖者の品性で、愛は聖者の化身です。愛を渇望することは、聖者を渇望することです。聖者だけが愛することができ、聖者だけが愛を与える勇気があります。愛は唯一に謳歌する値うちのあるものです。愛がなければ生命もないので、愛がなければ幸福もないので、愛がなければ太平もありませんから……。

万行は理想主義者でなく、現実主義者でもなく、真実主義者です。

悟った聖者は、心のままに一人で行動するのが好きだ、と凡夫からはこのように見えます。其の実、聖者の心には、なんでも具わっていて、万物と共に存在し、共に行っています。また絶対的な個体でもあるし、絶対的な同体でもあります。また彼は凡夫を理解していても、凡夫は彼を理解していないのです。そして彼は凡夫と同体でありますが、凡夫は彼と同体ではないのです。

悟った聖者の思想は、世俗の思想を以って計られるものではないのです。悟った人の眼には、生も生でなく、死も死でなく、愛も愛ではなく、恨みも恨みではなく、成功も成功ではなく、失敗も失敗ではないのです。悟った人は、ことごとく概念を超越していたからです。悟りですら悟りと感じていないのです。彼の心の働きは、すっかり本覚と一体になっています。

頭脳にとっては、一切すべては新鮮であり、すべては初体験であり、真我にとっては、あらゆる一切は、ずいぶん前に体験したものなのです。死ぬことを恐れているのは、我々の頭脳であり、真我がもとより死ぬことを恐れないのも、いまだに死んだことがないからです。

生とは、あなたの頭脳が生きていることで、死とは、あなたの頭脳が死んでいることです。真我は、いつまでも生まれることも死ぬこともなく、必ず頭脳の思惟や様々な概念を超越しなければならず、そこで初めて修行の段階に達し得ます。

あなたの頭脳を空(から)にさせたのちに、道はすぐ現われてきます。そうでないと、道もあなたの複雑な頭脳に、はじき出されてしまっています。あなたの頭脳で道を計ってはならず、あなたの頭脳を空にさせたところで道を認識することができます。

古人が説く眠らないとは、決して身体が眠らないことではなく、その意識を超越している観照者のことです。身体は生があれば、滅もあり、若い時があれば、老いる時もあり、動く時があれば、静かな時もあります。また観照者には、これらの現象がなく、それはいままで休むことを必要とせず、永遠に枯渇することはありえず、永遠に満ち溢れていて、永遠に若々しいのです。

観照のもっとも高い境地に達することが、無我です。無我は自己を万物の中に溶け込ませた最後の結末です。また観照は独立しているのではなく、総体的なもの、空無(空の理法の空、空の自性)であります。観るものと観られるものが存在すれば、まだ十分に到達したとはいえません。

あなたは心の欲するままに、一切の物事をするならば、あなたの智慧や、あなたの財産や、あなたの愛の心は、それきり湧き出なくなり、さらに枯渇するようになります。

あなたがより怖れることは、ますます行うべきです。そのようにして、ようやく、それを突き破れます。逃げることや隠れることは、どれも対処法ではないのです。

宋時代の永明禅師が「信じて理解しなければ無明が増え、理解して信じなければ邪見が増える」と話されました。どのような事にも執着してはならず、すべての概念を超越しなければなりません。たとえば愛することと恨むこと、勝利と敗北、貧しいことと富むこと、生まれることと死ぬこと、苦痛と安楽など、これらはすべて虚妄で不実なことであります。ある観照者が、これらを「付属品」と観る必要があれば、観照者の付属品なのです。

目を用いるのが、見るといい、心を用いているのが、観(み)るといいます。観ているのは、心であり、観るところは、貧と富であったり、喜怒哀楽であったり、即ちさまざまな幻像であります。有相であれば必ず不実であり、あの観照者は無相を以て相とし、無名を以て名としています。

禅定中の相は、無相を以て相としているので、目で見るのではなく、智で知り、真に見ないところなしと見てく、また見るところがないのです。

迷っている時には、三界があり、悟ったら一念で超越でき、六道輪廻は而今に空となります。

真空は、決して何も考えないのではなくて、空はまだ一種の有の境地であり、空と無は二種の異なる絶対の境地であります。

物質において解脱できる人こそ、精神の上では、より高い超越解脱(ちょうおつげだつ)(段階を経ない解脱)ができます。生活の有(あ)り様(よう)をわきまえる人は、物質を追求して自分自身の自由を失うことはしないのです。

知識と言葉では、まったく道を論じるに足りないので、必ず知識と言葉の領域を超越しなければならず、そうして初めて道の中に入れます。

肉体は修行者に対する影響があれほど大きく、根本的な原因は、まだ欲望が肉体に影響していて、さらに修行者の気分にまで影響します。凡夫の欲望は、何時になっても満足することができませんが、ただ修行により、自分の階級を昇進させるだけで、欲望は消えてしまいます。霊性においては昇進がなく、得道がないから、一生懸命に物質を追求します。まさに頭脳の幻想を棄てることを習得したのち、物質もあなたをどうすることもできなくなって、霊性もすぐに昇進し始めます。

修行の最後は、心霊の超越解脱です。楽しく生活し、落ち着いて仕事をします。もし現在あなたが超越解脱できるならば、二度と何も修行する必要はないのです。修行していること、それ自体が、まだ超越解脱していないと証明できるのでしょう。超越解脱した人は、ひいては自分がどの宗教を信仰しているのか、という心の働きまでも存在していません。また自分は宗教を信じていることも感じていないので、ある種の宗教を信じる必要もないのです。宗教を信仰する目的は、つまるところ、やはり超越解脱なのではないだろうか!