五.敬虔について
誠意と敬意のある人が入道しやすいのは、このような人は正しい気風を具えているからです。単(ひとえ)にこの敬虔さで広大の気概に頼れば、堕落しないで済みます。正しい気概のない人は、やはり、まず正しい人間になることから始め、人の道がよくできてこそ、初めて天道に入れます。 精、気、神というのが、極限まで満ちあふれていたら、天眼は自然に開き、頂(ちょう)門(もん)も自然に衝き開けます。雑念を除去して、心念が専一であれば、精、気、神は自然に満ち溢れます。 真の誠心は無我であり、無我ののち、初めて自己を取り戻せるので、修行によって最高の成就を収めるのは、すなわち無我であります。もっとも善良な人、もっとも純一な人は、もっとも道に近づいている人です。あなたを敬虔にさせ、奉献させ、奉仕させるのは、あなたに仏と菩薩の品格を養成させているのです。 信じることは必ず深く信じること、行うことは必ず力を尽くして行うこと、信じているが、深くなければ、信じていないのと同様です。行っていても、力を尽くさなければ、行っていないのと同様です。深さと強さがともに頂点まで至って、初めてその広大で、究極の「もの」を開けることができ、そうでなければ、全く隔靴掻痒です。 たとえば、そこに座って何にも考えていなければ、丸太とどこも違わないではないか?静座することは、決して何も考えないのではなく、つまらないことをあれこれ考えることはしないで、正しい思惟、すなわち正念を生ずることです。参禅あるいは五感を守ることのいずれも一念を集中させ、そのまま続けて、頂点まで至り、すなわち悟りを開くことです。 仏教の偉大なところは、私を信じてもあなたを済度し、私を信じなくでもあなたを済度するところで、よい人を済度し、悪い人もなお済度します。また仏教は唯一の神様あるいは数多くの神様を信じることではなく、あなた自身が仏であり、人は誰でも仏であり、六道において、どんな道(与えられた境遇)でも、修行する気があればこそ、すべて釈迦牟尼と同等の階位になれるのです。 万行は「人の本性はもともと善である」と固く信じています。人は誰でも善良な心を具えて、善良であることは、人類にもとから具わっている本性であり、もとから具わっている品性であり、悪習は後天的に身に付くものであり、環境の影響を受けるものであり、適当な指導さえすれば、本来の姿に戻せます。 私が他人から認めてもらいたいのは、根本的な原因としては、己に自信がなく、自分のすることなすことに対して、よく分かっていないからです。他人から認めてもらいたい人には、いつまでも本当の楽しみを得られません。他人の評価を気にする人は、より楽しみを得られず、周囲の助けを借りて得られた楽しみは、本当の楽しみではなく、内部の覚知に深く入り込んでこそ、初めて永久の大きな喜びを得られます。 昔の祖師がこう話されました。「本参(ほんざん)(捨て去って一切を空(から)にすること)を破らざれば、山に入らず、重関(じゅうかん)(昼夜不断に境界と一体でいること)に至らざれば、閉関せず」俗世界の功名利欲を放棄しなければ、空性を見つけなければ、山に入ってはならず、山で住んでもあなたの心は安定しないのです。その「もの」を修得してなければ、そのものを見つけていなければ、あなたは閉関してはいけないのです。目の前が一面に真っ暗では、どうやって修練に励むのでしょうか?どうやって入定できるのでしょうか?その心を明らかにして、初めて見性(けんしょう)(悟ること)することができます。見性(けんしょう)したら、隠棲して、数年の工夫をして、「それ」と打って一丸となり、最後に、いざ行こうといえばすぐ行けるのです。もしそうでなければ、仏の力あるいは成就した上師の力によって、臨終の時にあなたを引(いん)接(じょう)しても同様です。ただ、そのための前提条件として、必ず仏、上師に対して深く信じて疑わないことで、初めて仏や明師の力に応じられます。焼香したり、仏を礼拝したり、明師に供養したりする目的はいずれも信じることの深さと強さを養成するものであります。 道には、分別するものがないので、あなたは分別することがなくなって、初めて道に深く入り込む事ができます。一旦、あなたに分別することがあったら、そのときこそ道から退出するときです。分別は頭脳から来たもので、道に頭脳は必要としないので、政治や商売の世界こそ、頭脳を必要とします。道は総体に属しているもので、総体の中には、分別がなく、個体だけは分別があります。子供は分別がないから、道と同一体になることができ、人は誰でも、内在の核心は一人の子供であり、すべては道と同一体であります。内在の核心、すなわち子供を見つければ聖者になります。頭脳はそこで、わざと威儀を装い、厳しく近寄りがたい様子をしています。道は気楽であり、活発であり、喜ばしくあり、分別がないのです。頭脳はつねに強くありたいので、分別することになったのです。幼稚であり、純一であり、無邪気であることは、何か悪いことがあるでしょうか?事実は事実なので、それを本来の姿のままで存在させるべきであり、人為的なのは、一種の分裂であります。心霊は純一であり、つねに開け放っています。また頭脳は複雑であり、つねになんとかして自分を偽装しようとし、頭脳は弱虫で、もっとも命を惜しみ、死を恐れるものだからです。小さい時から頭脳は偽装することや、分別することを始めたので、不死のものがあるのを、これまで知らずに、ずっとそのものとすれ違っています。まわりの環境は問題にはならないので、問題はあなたの頭脳から出ていたもので、頭脳の恐れであり、あなたに内在の仏性を開花させないようにすることです。何ものをも恐れない元気を出して、頭脳を一度に死なせましょう。そうすれば、あなたは仏性を目にすることができるでしょう! 宗教は科学のようでなく、疑うことで、研究の成果を収めることができないのです。科学は知識的な範囲に属しているものなので、疑うことを必要とすることで進みます。宗教は霊性的な範囲に属しているものなので、敬虔な心を必要としています。科学は疑わなければ、研究しないので、研究しても進歩がないのです。宗教は敬虔に信じなければ、修行できないのですから、修行しても成功しないのです。宗教において、疑うことは通用せず、科学では、敬虔に信じることは通用しないのです。宗教の頭脳は、無邪気さと純粋さを必要としています。科学の頭脳は、複雑さを必要としています。宗教と科学とは極めて食い違いがあります。それらは、はっきり異なる性質の力、すなわち敬虔に信じることと、疑うことを使って運用しているからです。この二種の力はどれでも正しいのですが、同じ領域に使うわけにはいかないのです。宗教で言う疑うこととは、探索の意味が入っているので、科学で言う疑うことは否認する意味が含まれています。哲学は既に宗教の外郭に近づいていますが、内在の核心には、哲学は夢にも見られないのです。その根本的な原因として、哲学はまだ頭脳で運用して、または、頭脳が産んだものに属しているのです。そして宗教は、霊性で運用しているので、霊性が産んだ成果なのです。 宗教は一種の実践学であり、自ら証する学問であります。哲学は一種の思想学であり、頭脳学であります。あれこれ思い、あれこれ考えれば、哲学になってしまいます。哲学では、理論を弄ぶことができれば、空が空に向き合えば、すぐ合格するでしょう。宗教において、理論に通じても、命がけで修行して証明しなければならず、必ず、そのもっとも本質的な、もっとも核心的なものを見つけてこそ、初めて一段落と言うことができます。宗教は哲学を含んでいますが、哲学の中には、絶対に宗教がないのです。仏学の研究者は、仏学は哲学であると言ってますが、それは修証したくないからです。ただ文字の上だけで努力し、文字の上だけで研究しようとして、仏教も哲学になってしまいました。仏学は既に哲学の源を尽くしましたが、哲学で述べているものは、ずいぶん前に、釈迦牟尼が述べていました。仏学とは何か?仏を学ぶこととは何か?仏を信じることとは何か?仏教とは何か?仏法とは何か?これらを皆さんが研究するように残しておきましょう! 修行する人として、もっとも重要なことは、真実の面目(めんもく)(本来の姿)で自分と向き合うこと、内心のあり様がそのまま反映して、言葉と心が一致しなければなりません。仮に、あなたが修行しないなら、言葉と心とが一致していると、話さずに済み、修行において、多少進歩したければ、真実の面目で自分や周囲と向き合う以外に、入道できる第二の法門はありません。万行が十数年の間、自ら体験したことや観察したことによれば、多くの人が、長年修行しても、入門できなかった主な原因として、真実の面目で現実に直面する勇気がなかったからです。このやり方では、あるいは世間のことに対して、役に立つかもしれないが、修行のこの道に使えば、かえってもっとも大きな障碍になります。真実に人、事、物と向き合うことができれば、すなわち、もっとも大きな解脱であり、真実の程度が、すなわち解脱の程度になり、真に而今が解脱であり、時間と空間の隔たりがありません。ただ真実の中にいるだけで、その自然的な、先天的なものが、初めて現れます。 宗教に対して、敬(きょう)信(しん)の心が起きなければ、修行してはならず、むしろ宗教学を研究したほうがましで、仏学に入り込めば、あなたを毎日、十分に働かせます。仏教を学んでも、忘我の程度まで学ばなければ、その如如不動のものは、まったく現わすことができず、それは研究によって得られるものではなく、仏学とは関係ありません。敬信から忘我があり、仏性が現れることです。自分が十年前に、仏教を学んでいるときの、ある敬虔で忘我になるほどの意欲は、今日思い出しても笑えます。そして師匠は、「女の子を見てはいけない、見たら成仏ができないよ」と言いました。そうして、女の子に会うと、すぐに目を閉じて、見ると成仏できなくなることを、ひどく恐れていました。ある日、師匠は空にある一座の雲を指しながら、「あれは観音菩薩のだ」と言いました。私はすぐにその場で、空中に対して跪いて拝礼するようにしたのです。ある物もらいの年上の男は私と出会うと、私に「和尚、おれは菩薩の化身だよ」と大声で言いました。当時は、私が持っているお金のすべてを彼に与えただけでなく、服までも脱いで彼にあげました。菩薩が万行を試しているのだから、この機会を逃すことだけを恐れていました。最初に仏教を学び始めたころ、身、口、意のすべてを師匠に供養しています。この献身的な精神で十数年間の修行をしました。 禅定の工夫の深い人について言えば、死んでゆくその寸時に、この部屋からとなりの部屋に入るように、神識が非常にはっきりしています。まるで生前に静座して入定しているときに、魂が出入りするように簡単です。生前に禅定の工夫のない、肉体から離れることのできない死後の亡者に対しては、必ず明師の引接に頼らなければならないのです。明師を信じなければ、亡者の中陰身(ちゅういんしん)(霊魂)は生前の業力(ごうりき)(習気)に従って、転生していきます。生前に淫の好きな人は、死んだのち、必ず畜生道に転生します。また生前に、戦うことと殺すことの好きな人は、死んだのち、必ず修羅道(しゅらどう)に落ちます。生前に、仏を好きだった人は、死んだのち、必ず仏国に生まれます。 明師を敬信することは、決して迷信と同じではないのです。明師を敬信することは、自分の賢さや才知を通じて、明師の教えの意義、思想および行為をひととおり了解していることで、敬信することは智慧の現れであり、智慧の結果でもあります。また迷信はかえって無知の表現であり、恐れの表現であり、迷信は、自分の智慧の花がまだ開いていないことを意味していて、明師の一存で決めてもらう必要があります。敬信するのは、明師の思想を通じて、いくらか証悟して、「我執」を見極めて、同時に、我執を取り除いた一人の解脱した人です。迷信するのは、まだ我執を見極めずに、我執をまだ隠していて、まだ解脱せず、まだ明師にこだわり迷っています。明師を敬信しているなら、これ以上明師を否定はしないのです。明師を迷信することは、随時に明師を否定してしまうことを意味しています。 成道した人は、もとより真実な人で、ただ真実を通して、初めてその究極なところに入れます。これと逆ならば、引き続き途中にいて、引き続き達成し難く、引き続き過去や未来で生活しています。生命は純一であり、これ以上あなたは何かのふりをする必要がなく、ただあなたが勇気をもって真に生命と直面すれば、初めてその生命の意義はその而今にあります。そのわずかな時間が現れました。その究極は未来にあるものではなくて、而今にあり、このときこの場にあります。あなたに目標がなくなったとき、それは、あなたの目標が達成したときで、すなわち、あなたがもっとも真実であるときです。目標があったなら、必ず目標の為に生きるので、それと同時に、あなたのもっとも真実である一面を失っていたのです。 仏を信じることと仏を知ることは、まったく別の事であり、信じることは、その中に迷信の部分が入っていることを意味しています。信じることは、随時に動揺する可能性があり、塀の上の草のように、風に従って揺らぎ、信じることは迷信からきたもので、無知から来たものです。仏を知ることは、あなたが仏を体験したことを意味しています。知ることは体験することからきたもので、体得することからきたもので、自分自身から来たものです。信じることは他人がもたらすのです。あなたが仏について知ったのちは、信じるか信じないかの説は存在しません。そして仏は一種の存在だけであり、覚悟した衆生です。あなたは天上に玉帝(ぎょうてい)(道教の神、天帝)がいることをしらないときでも、なんとか玉帝(ぎょくてい)を信じています。信じることは知ることを代表できず、知ることは、すでに信じることを超えているので、信じることは知ることではないのです。 敬信を長く続けてこそ、解脱であり、これ以上修行する必要がありません。敬信することの階級は、無我の階級であり、無我の階級は、万物と同一体である階級です。 修行の秘訣および自己を超越する秘訣というのは、いずれも敬信することを以て基礎としています。敬信して、初めて自分自身や万物に対して、慈悲心が産まれます。慈悲心はありとあらゆるものごとと結びつける根本的な法門であり、三摩地に入れるもっとも速い法門でもあります。慈悲というものは、自己を溶かす一種の手段でもあり、その中に溶け込める手段でもあります。 敬信によって慈悲心が生じ、無我が生じ、三摩地が生じ、万物と同一体に達し、不生不滅の境地に入ります。 本当に、徹底的に自分の身、口、意を上師に供養することができるならば、この時この寸時こそ、あなたは上師と同じ階級になれ、すなわち仏や菩薩と同一体になれるのです。 祈祷は、一種の「我執」を取り除く方法であり、宇宙に溶け込む前の功ある修法です。真に祈祷することは敬信であり、敬信が極まれば無我です。基礎とする無我がないと、仏国の大門に入るすべがないので、敬信がなければ、どのように静心するのでしょうか?仏国の大門に入ったのち、これ以上祈祷する必要はありません。静心すること、静座することはいつまでも必要です。 明師は、衆生を済度するために来たもので、彼が使っている方法は奇奇怪怪であり、絶対に同じ形式で出現しないのです。明師に備わっている条件が、衆生を明心見性させることができ、衆生を転迷開悟させることができ、衆生に対して、平等博愛ができるのです もっとも大きな功徳は、悟りを開くことです。またもっとも重い罪は無明(むみょう)です。またもっとも大きな善行は、明師のために道具になることです。そしてもっとも大きな供養は、自分の身、口、意のすべてを上師に供養することです。 もしもあなたが道に親しく近づけなければ、あなたは明師に親しく近づきましょう!ある角度からいえば、明師の階級は、道の階級なのです。明師は道と同一体なのです。 真の明師は、夜の灯明のようであり、呼ばなくても、自然に衆生が引き寄せられます。 悟りを開いた明師がやっているすべては、仏がやっているすべてなのです。そして明師に親しく近づくことは、仏に親しく近づくことです。 蝋燭(ろうそく)自身は明かりをつけることができない、必ず火がついた蝋燭(明師)で、あなたに明かりがつけられます。真理はこのように代々に伝えてきたものです。あなたが完全にこの明師を信じているときに、初めてあなたに明かりがつけられます。ただし、明師はあなたを強制して、師を信じさせることはなく、明師はいつも縁に従って事を行いますが、それは明師には、「我執」がないからです。 明師はあなたの魂を連れて、生命のもっとも高い源、すなわち仏国の領域に至れます。ただし、あなたの心霊を開けたくなければ、もとより明師は強制的に誰かを連れて行くことはしないのです。悟った明師は、なすべき事のない人であり、何事もせずに、明師としての存在だけで、ありとあらゆる事を行っているのです。 明師の加持力を得たければ、まず、あなたの頭脳を空(から)にしなければなりません。あなたの「我執」を取り除いて、初めて明師の力が入ります。そうでないと、明師の力もあなたの複雑な頭脳に抵抗されて門外に置かれます。 真の解脱法門は、夏に冷たい水を飲むように簡単だったのです。しかし、誰がそれを信じるでしょうか?万行ですら、当時はヨーガを習ったのち、道教を学んで、さらに禅宗を学んだり、密教を学んだりしていたが、最後には、死ぬほど疲れてしまったので、やっとそれを放下して、悟りを開きました。 在家者としては、静座する時間があまりないので、実際には、出家者のように必死に禅定を修行する必要もありません。一つ簡単な方法を、在家居士の修行に供すと、それは敬信の法門を実践すること、単にこの敬信に頼っているだけで、解脱することが出来ます。あなたの明師は完璧であり、全知全能であり、有求必応(うぐひつおう)(求めれば必ず応じること)であると信じることです。工夫をしたければ、時間があって、時間を費やせる、そういう人はだれでも修得ができます。ただし、心の働きにおいては、もともと修得でもたらされたものではなく、これは前世の根器と関係があります。ある人は、ちょっと聞いただけで信じて、すぐに入門できます。ある人は、聞き終わってもまだ疑っています。しかし、足を組むことは、数時間も出来ます。この趺坐(ふざ)(足を組んで坐ること)の工夫は心の働きによる敬信と比べて遜色ないようです。 | ||
- Next Page 六.工夫について
- Previous Page 四.生命について
