四.生命について
衆生はだれでも、元々は仏であり、この世にやってきたのは、仏の力を発揮するためなのですが、この世での誘惑力は大変に大きいので、私たちは一日中、外に向って求めるという結果になったのです。長い時間がたつと、自分自身はどの仏様が下界におりたかを忘れてしまい、内在の力との繋がりも失ってしまったのです。明師の教えを受ければ、すぐに自分の本来面目を知ることができます。 仏と菩薩が、この世にやって来たのは、もともとこの世を加持(かじ)(護念、衆生を守ること)して、この世を浄化させるためなのですが、長い間に、俗世界のこの舞台で、人間世界を遊び巡って、自分の使命を忘れてしまうこともあります。このように、仏国を忘れてしまい、仏国を否認するようになったのです。 自分の本来面目を見つけなければ、永遠に輪廻しながら探し求めます。この世にやって来た目的として、一つは自分の本来面目を探し求めること、二つは、この世を加持することです。自分の本来面目を見つけない限り、永遠に満足できません。これこそ、なぜ我々の生活は、永遠に不満足で、ひたすら外的なものを追求して、内的な心の空洞を埋めているという訳なのです。 肉体はすなわち真我(大我、真実の我)の一台の機械で、真我はこの機械の助けを借りて、自分の役目を明らかにします。百年たてば、この機械は朽ち果てしまい、そうして真我は、自分に適合するその機械を探し求めなければなりません。そのように、輪廻は永遠に終わりがないのです。たとえば生前に、修行によって真我を現わすことができて、さらに虚空と一つに融合することができたなら、そして臨終の瞬間に、真我は自動的に、広大な本覚の中に融け込むはずです。そうでなければ、またこの地球にやって来て、転生を受けて輪廻を続けます。 生は偶然のことで、死は必然なのです。どのように死ぬかは関係なく、重要なのは、どのように生まれるかなのです。良く生まれたのち、生を学ぶことができて、初めてどのように死ぬかを知り、初めて死ぬことに安心できます。 運命は決して誰かが主宰するものではなく、自分で主宰するものなのです。一人の個性は、自分の一生の運命を決めています。個性そのものは、今後の運命の描写であり、個性は運命の形象であり、個性はこれからの前途を決めています。 死ぬことを恐れるのは、あなたが生命の根源を知らないからです。生命は不滅であり、生命は循環しているもので、いままで生命は死んだことがないのです。あなたが禅定に深く入り込んでいたときに、あなた自身はすでに無数の生を受けて、無数の死を経験したことを知ることになります。肉体はあなたではなく、頭脳はあなたではなく、心もあなたではないのです。既に発生した死亡と出生のいずれも、あなたの頭脳や肉体は、百年に一度ずつ交換して、その交換の間じゅうも始めから終りまでひとつの不生不滅であり、交換しないものが存在していて、それは永久不変であります。その死ぬことができ、生まれることのでるものは、既に、数えきれない生と死を経験しても、あなたの「真我」は、始めから終りまで生きています。真我はいままで生まれてないのだから、どうして死ぬことができるでしょうか?真我は先天的であり、宇宙の存在以前から、既に存在しているもので、宇宙に壊(え)劫(こう)(四劫の一、宇宙が壊れること)が有っても、それは、相変わらず壊れないのです。 人生はまるで長い川のようで、時とともに流れています。水を異なる水路に流せば、異なる形になります。しかし、水の本質は、永遠に流動性であり、湿性であり、透きとおっているものです。異なる年齢層の人は、異なる心の働きを生じるはずです。一生を通してずっと変動して、ずっと追求して、いままで満足したことがないのです。道を開かなければ、究極という海洋に入らなければ、いつまでも追求していくはずであり、いつになれば海洋に流れ入るのでしょうか、すなわち道に入って、そこで満足するのでしょう。人々があらゆるものごとを追求しているのは、道に入っていなかったからです。成道した人は、努力して事を行っていますが、欲望にこき使われて、必死に追求しているのではありません。 生命はまるで一筋の水のようで、時につれて流れています。あなたがそれを阻まなければ、それは自然に自分の道を形成でき、自然にあなたを生命の究極、すなわち大海まで連れて行ってくれます。縁に従って、周りの一切を引き受けて、水流の勢いにのって、丸ごとの生命の旅では、一草一木をも取り逃すはずがなく、あらゆるものごとを、すべて得られます。 臨終の一念は、非常に重要で、臨終のとき、あなたが何かを記憶していれば、そこへ転生します。もし、あなたが仏だけを記憶していれば、それは仏国に転生します。もし生きていた時、性欲とセックスだけを記憶していて、臨終にも性欲だけを記憶していれば、間違いなく畜生の身を受けるでしょう。生前の習(じっ)気(け)(業の潜在余力)や嗜好は、あなたの臨終後の行き先を決めます。この一生涯の行為は、あなたの来世の運命を決めて、今生(今世)のあなたのその姿は、前世に残された習気なので、今生に、あなたに何か習気があれば、急いで取り除きましょう。来世まで持って行かないで済みます。今生で、あなたにこのような習性があれば、前世では、あなたがそれを打ち破れなかったことを証明しています。 男性と女性が、互いに引き寄せ合うのは、二種類のエネルギーが、あと推しすることによって、起きているものです。人は誰でも二種類のエネルギーを合わせて、作り上げられたものです。あなたが男性であれば、身体の中に、陽性エネルギーを五十一パーセント、陰性エネルギーを四十九パーセント備えています。女性であれば、あなた体の中に、陰性エネルギーを五十一パーセント、陽性エネルギーを四十九パーセント備えています。 人は誰でも、体の中に半分のエネルギーが睡っています。あなたが男性であれば、四十九パーセントの陰性エネルギーが睡って、女性であれば、四十九パーセント陽性エネルギーが睡っています。だから、人は誰でも、その他四十九パーセントのエネルギーを探して調整を求めています。このようにして、愛情が生まれたのです。 女性は大地であり、あらゆるものごとは、すべて大地の上に建てられたので、大地は、一切のものごとに耐えて、男性の根は大地を以て基礎としています。空から雨が降っているのは、天と地、陰と陽を繋ぐ一種の方式であります。雨は天と地の間にある脈絡であり、一本の通路であり、雨は大地に落ちたのち、水蒸気になって、さらに大地にある陰性エネルギーを空中に運んでゆき、そのように循環しながら、天と地を繋ぎ、それも天と地、陰と陽のエネルギーの釣り合いをとる一種の方式です。長い間、雨が降らなかったら、地上にいる人や動物のすべては、病気になるだろうし、わけがわからずにつらい思いをします。これは天と地の釣り合いが取れていないために、地上にいる生物も釣り合いを失っていたからです。人体のエネルギーは、天と地のエネルギーから来たもので、天と地のエネルギーは釣り合いを取っていてこそ、人体のエネルギーも釣り合いが取れます。 男女の求め合いは、二種類のエネルギーが釣り合いを求めているもので、人は誰にも、体の中に、二種類のエネルギーが具わっていますが、ほぼ半分のエネルギーが睡っています。世の中で、このエネルギーの釣り合いを外に向けて追求しないのは、ただ一種類の人だけで、それは悟った聖者です。悟った人は、決してこのエネルギーでの釣り合いを必要としないのではなく、彼らの中にあるその半分のエネルギーが、修行によって、蘇り、さらに、両種のエネルギーが一つに融合したので、彼らは女でもあるし、彼女らは男でもあります。人類はもともと二種類のエネルギーで作り上げられたもので、あなたは内に向かって、内部にある女、或いは男を見つけない限り、必ず外来のエネルギーの釣り合いを必要とします。ここではばからず、一言の天機(本意、天意)を説き明かしますと、人体は多くの病があり、また心理的な病気や、生理的な病気、ひいては奇妙な変種病気を含み、すべてはエネルギーがうまく釣り合いを取れずに生じたものです。釣り合いの取れたエネルギーは、陰性的なものでもなく、陽性的なものでもないので、一種の静止状態で、総体的なエネルギーです。陰と陽のバランスを取れてこそ得道です。 万行は常に、修行は心の働きから着手すべき、とよく主張していますが、即心(そくしん)是(ぜ)仏(ぶつ)(心はそのまま仏である)という内在の超越こそ、無上の大法であります。生理的な修練には、健康さえ得られれば、それだけでいいのです。生理的なエネルギーを逆転させるのは、本当に簡単なことではないのです。出家者はどちらかと言えば、この道を歩くのが相応しく、息子も、娘もいなく、気にかけるものもないからです。生理学の法則から見ると、エネルギーは下に流れるほうがよく、修行の角度から言うと、エネルギーは、上に流れてゆくほうがよいのです。この一筋のエネルギーを逆転させるならば、もしかすると、生命を犠牲にしてしまいます。エネルギーを上昇するときに、数えきれないほど様々な病気にかかるようになります。全体の生理機能が乱れるのはもっとも危険なことです。すなわち生命の危険を冒していることです。仏教の「高僧伝記」には、数百名の高僧事績を記載していますが、修行の途中で、死亡した者は数千名にのぼります。まるで軍隊の元帥はただの数十名ですが、戦争場で死んでいった兵士は数えきれず、と言うようなものです。 二十二歳のとき、私は初めての閉関をしたときから、自身のそのエネルギーを逆転させ始めました。その時から、私の生理機能が乱れてしまい、また、私は病気にかかり始まりました。それ以来二十八歳まで、病気でもうすぐ死にそうにもなり、それでも私は、このエネルギーを抜き出せば、どのような病気も消せることが良く分り、幸いに菩薩がやっと私を受けとって下さいました。ある明け方,生理上に大きな転化がありました。汗をかいたうえに、気が抜け出て、そのうえ光を放っていました。昔から禁欲する人に、長生きする人は何人もいませんでしたが、肉欲の赴くままの人には、長生きできる人はもっと少ないのです。自然の摂理に逆らうと、自然を超越しなければ、必ず自然に飲み込まれます。 修行そのものは、未知に挑戦することなので、思い切って未知に向かうのは、非常に勇敢な行動を必要とします。この勇敢な行動があってこそ、未知に進めます。実際には、生活の中のどれ一つをとっても、すべて一種の未知であり、たとえば、部屋が倒壊するかどうか、明日はまだ生きているかどうか、食品の中に毒があるかどうかなどです。 未知に慣れていれば、未知の存在を感じません。まさに修行がその道に及んだとき、よく神様は本当に存在するのか、私は悟りを開けるのか、と問いかけます。他人の回答に対して、あなたは絶対に信じられないのだから、水に飛び込まれなければ、絶対に水泳を覚えられないようなものでしょう。未知に進まなければ、いつまでも既知は在り得ないでしょう。生命の中の一歩ごとすべては既知から離れて未知に進み、既知に至って未知に進み……ずっと循環し続けるものです。 人はだれでも二種の品性、すなわち偉大な面と微小な面が備わっています。上帝(じょうてい)(万物を司るもの、創造神など)は一面だけあります。それは偉大でもなく、微小でもないのです。実際には、日常生活において、刻一刻と、上帝と一緒に生活しています。上帝に会ったのは、修行によるものではなく、祈りによるものでもなく、感悟(かんご)(感得し悟ること)によるものです。上帝の存在を感悟していてこそ、内在の飢餓を終了できます。 法則を求めることは、自由がないことを意味しています。自由を求めれば、法則を打ち破ることを意味しています。入門する前に、法則が必要ですが、道に入ってからは、ようやく自由になれます。 生命の存在している而(じ)今(こん)(この今、ただ今、この場)は喜びであり、これ以上、何か目標を立てて、あるいは何か目的を達成しようとする必要はないのです。目標があるからこそ、苦しみもあり、而今にある生命の意義を取り逃がします。生命には目的があってはならず、さらに目標があってもならないのです。生命はまるで川のようで、永遠に止まらずに流れています。海も流れています。水の落ち着くところは、決して大海ではなく、流れているところが、水の落ち着くところなのです。生命もこんなふうに、始めもなく終わりもないので、生命が存在している而今は、涅槃であり、あなたがいたるところは、どこでも天界なのです。天界は一つの目標ではなく、一つの生活の方式なのです。あなたが目標を持っていないときこそ、天界に入っていたので、あなたがそのとき、その場で生活することができたならば、天界はすでに現れていました。生命を未来に託して、ある目標を指し示すとき、生命を抹殺してしまいます。生命の意義は、でき合いのものをそのまま受け入れることにあります。果たして、この「受け入れ」に含まれている意味を理解できれば、あなたは解脱した人です。生活に必要としている一切は、而今に既に存在しています。而今に存在していなければ、将来もあるはずないので、而今は未来の而今であり、過去の而今でもあります。「而今」の二文字は一切の時間や空間を含んでいます。一切の時間と空間は、すべて而今の投影であります。而今とは何かと言えば、過去も未来も何もかもです。 天上(天界、天上界)での修行速度は、俗世界より遥かに遅いのです。俗世界には、苦しみや楽しみ相半ばして、順境や逆境いずれもあります。また天上にはどんなものごとでも、すべて意のままになり、さまざまなものはすべて現れて、間に合い、来る日も来る日も享受しています。三界を超越することを考えず、享受して、福報がなくなれば、またこの世に降りて来て、再び修行を行います。生前に修行の功力(くりき)が足りなくて、三界を超越することができなかったため、また天上に昇って享受し続け、輪廻し続けるほかないのです。三界を超越して、ようやく輪廻しなくなります。 一切の有相(存在するもの)はみな虚妄ですが、至る処で善行をしても、つねに悪事をはたらけば、やはりそれぞれの因果応報を受けねばならず、絶対にいい加減にしてはならないのです。各層の天界には、それぞれの因果規則を具えています。たとえ大悟した祖師たちであっても、行為においては、不捨一法(ふしゃいっぽう)(何一つ捨てないこと)であります。心においては、空でも良いのですが、行為においては、大衆に奉仕する機会を捨ててはならないのです。宇宙にある一切は、実もなく、虚もなく、真もなく、偽もないのです。国を愛し、宗教を愛する心だけあっても足りないので、行動に生かさなければなりません。 どの程度もっているかは重要ではなく、知足しているかどうかが重要で、自分の心の働きが変わらなければ、誰もあなたを助けられないのです。 隠栖の生活は、確かによいのですが、大菩薩について言えば、決して隠栖せず、菩薩の道を実践しなければ、最後に、究極の円満な仏果を成就できず、他人の修行を助けなければ、自分の修行も進み難いのです。 時代に適応して、社会に奉仕して、生活を豊かにさせる仏法こそ、真の仏法であります。まだ理事円融(りじえんにゅう)(道理と事がらが融合して一体であること)であり、正知正見であり、有情(うじょう)(衆生)に利益し楽しませる修行だけが、真の修行であります。そして思想を抽出して智慧にして、感情を養って大願や大行にしてこそ、真の円満であり、まさに真の究極であります。 権力は人類がかかっているもっとも重い病です。人間が生まれるとすぐに、これは高尚な職業だと教え込まれて、実際に、内在の空虚な人は、そうして一所懸命に権力を追求し続けています。権力は道ではなく、道の付属品なので、権力によって修道することもでき、権力のある人が、人類に対して行った貢献は、一人の宣教師の貢献にも劣らないのです。権力と道は少し違うところがあります。それは、権力は他人から与えられる必要があり、他人がいなければ権力の意味もなくなります。道は他人を必要としないもので、自分一人だけで、実現できるものです。権力は他人を支配するもので、道は自分を支配するものです。 或ものを追求しすぎると、そのものにあやつられ、さらに自分自身の自由を失ってしまい、そのものの奴隷になり、そのものを得るために、人々は気が狂って、我を忘れるようになり、どんなことでもするようになります。獲得と成功は、人類の二大悪魔であり、悪魔は自分の偉大さを証明したいのです。実際には、自分は偉大だと証明しようとすれば、するほど、微小になります。偉大さを放棄することができてこそ、自分は真に偉大になれます。また自分は強い人になりたいという思いを捨てたときこそ、真に強い人になります。そして解脱の欲を放棄してこそ、真の解脱なのです。 お金を握って放さなければ、お金の意味も失ってしまいます。お金は流通することによって、その価値を表せるもので、お金は人間のために生きるもので、人間はお金のために生きるべきではありません。お金は人間の道具であり、お金は人間が創造したものであり、この規則に違反すれば、生活は苦しくなって、自分も人間らしさを失います。お金を貯めることは、自信がないことを意味し、ただ明日お金を稼げなくなることを恐れているからです。お金の価値は流通することにあり、権力の価値は人民のために使うことにあり、お金と権力はいずれも放棄する必要がないのですが、放棄しなければならないのは、お金と権力に対する占有欲なのです。 多くの修行者は、霊性を追求することと、物質を追求することのバランスが、うまく調整されていません。私はあなたに一つ簡単な方法を伝えましょう。たとえば、あなたが内心で霊性を追求する人であれば、霊性を主として、物質を副次とするべきで、生活に対する必要な部分さえ足りれば、それでいいのです。物質の追求者であれば、物質を主とするべきで、修行、霊性をあなたの生活の調味料として、物質的生活の音楽としましょう。逆に、物質を霊性の中の音楽としてもいいのです。両方とも主導的な位置にあるか、あるいは、副次的な位置であれば、あなたは、何事も成し遂げることはできません。物質的な満足は得難く、精神的な満足はもっと得難いのです。両方を比べていえば、物質的なものは、比較的に得やすく、物質がある程度に達すれば、必ず霊性的なものを必要とします。霊性がある程度に達すれば、物質を追求しなくても済みます。この道理を分かったのちは、両方のバランスを調整できます。主と従をはっきり区別すれば、あなたは楽しい人になるでしょう。 何が道徳で何が道徳でないかについて、定説はありません。仏教の思想に準じるならば、つねに返観内照(へんがんないしょう)(心の内面を観ること)し、内部の旅に深く進み入れば、それこそ道徳で、これ以外はすべて不道徳であり、表面的なことを多くすればするほど、不道徳になります。自然な表明こそ道徳なので、内在の花が咲かない限り、すべて道徳ではないのです。宗教での道徳は、内在の心の働きに準じて論じるものであり、社会での道徳は、表面的な行為によって論じているもので、たとえば、宗教では、人を殺そうとする思いが動くだけで犯罪ですが、社会の規定では、人を殺して初めて犯罪といえます。内在の花が咲いていれば、何かしたことのすべては道徳にかなっています。もし人を殴ったり、罵ったりしても、道の現れであり、愛の心に基づいて、殴ったり、罵ったりしているのです。そして、至るところ道徳の現れであり、至るところ内在核心の現れであり、放射されてる形で現れているのです。 勝利と失敗は、ただ一枚のコインの両面であり、いずれも美しくて、どちらも上帝の智慧で入念に設計され、衆生の成長と成熟は、この一枚のコインの両面を必要とします。そして、智者は失敗からより多く智慧を吸収し、勝者はえてしてより多くのものを失っていて、敗者はかえってより多くのものを得られます。歴史の法則として、人々は勝者にだけ感心だけを示して、尊敬はしないのです。はなはだしいのは勝者をきらって、逆に、敗者に同情するだけでなく、さらに尊敬しています。人生いおいて、勝利することがあれば、失敗することも必ずあります。ただし、人々の習性はつねに成功の一面や、良い面を見せています。それは日常生活において、写真を撮るときに、いつも綺麗な一面をレンズに向けているようなものであります。 環境はだれにもみな同様で、絶対にだれか一人に偏ることはなく、異なるのは人々の心の働きにより、環境に対する感覚や評価が違うだけであります。昼が好きな人もいるし、夜が好きな人もいます。天界が好きな人がいれば、俗世間が好きな人もいます。悟った人にとって、俗世界の美しさは天界に劣らないばかりか、天界よりも数万倍は美しいのです。 故郷にことわざがあります。「女の心は十割があり、男の心は八割りしかない。」女性は何をするにも、十分に集中しますが、男性は八割しか集中していません。女性が、怒ったときに、十割を使いますが、男性は八割しか使わないのです。 家庭では、感情だけで論じて、理屈で論じるものではありません。また法廷では、理屈だけで論じて、感情で論じるものではありません。 煩悩も煩悩ではなく、それに対する認識が足りないだけだからです。禅定に深く入り込めば、煩悩は喜ばしいことであるのに気付きます。これは、まるで夕方、道に置いてあるひもを目にして、遠くから見ると、蛇のようでも、我々が気を落ちつけて近づけば、ああ、なんだひもか、と分かるようなものです。あなたはこのひもがはっきり見えていないときに、このひもは毒蛇になってあなたの道を遮ります。だから、煩悩をすっかり取り除けば、菩提もなく、菩提は悟りであっても、悟っていなければ、菩提は煩悩なのです。 お金や物質にあえて直面しないのは、まだ超越していなかったことを証明できます。果たして、お金や物質を超越したならば、なぜそれにあえて直面しないのでしょうか?これはなぜ悟った明師が、お金のことや性のことを大胆に語るのかと言うことなのです。仮に、人々がお金と性を貪っていなければ、お金と性はどうやって人々の苦しみを引き起すのでしょうか?お金と性は大馬鹿もので、人の命令に従うもので、主導的なものではないのです。超越した人にとって、お金や性は、成長する助縁と見なし、それは美しく、享受するものであり、汚くはなく、苦しいものではありません。世の中のどのような出来ごとでも、すべて二重性を備えています。すなわち陽極と陰極の二つで、釣り合いを取りたければ、この陽極と陰極の力に頼り、どちらを捨てても、それを達成しようがないのです。 禅を修行する人は、来世に興味がない人です。禅者の眼中には、而今だけがあり、まさにこの時しかないので、これまで望みを来世に寄託することがなく、而今にあるその頓悟(とんご)(ただ今の悟り)が究極なのです。順番もないので、此岸(しがん)は彼岸(ひがん)であり、「一」は一切であり、刹那は恒久であります。禅を修行することは、もっとも単調であり、もっとも退屈であり、退屈を通りこして、初めて究極に達すことができ、退屈によって一切の妄想を殺すことができ、一切の智慧がほとばしり出てきます。智慧は退屈から生じたもので、退屈は比べられない強大な浸透力を具えています。退屈はその極に至ることができ、退屈によって、成仏することができ、退屈から人生を見通すことができます。 物質の世界で生活しているのに、欲望をもたないのは全く不可能であり、食べ物や、着る物や、住む所が必要となり、病気にもかかり、まわりの環境は、あなたに欲望が生じることを促しています。人の一生涯は、すべて欲望のためにいきていて、修行も一種の欲望であり、正しく対応すれば、欲望は決して悪いことではないのです。欲望は一種の生命力であり、生命力さえあれば、欲望は必ずあり、欲望こそ万能であります。 科学では、一つのものを二つに分け、ひいては三のものに、四のものに分けて見ています。宗教では、むしろ一つのものを総体として見て、中間には限界がありません。天、地、人は、もともと一つの総体であり、総体を壊すことは、すなわち釣り合いを失うことです。総体の中で模索するならば、初めて究極の源を見つけられます。科学では、死んだ人をもって研究していて、宗教では、生きている人をもって研究しています。だから、万行がいつも言っているのは、科学は一種の死体学であり、宗教は人体学なのであります。一万年たっても、科学は宗教の相手にならないのです。人が死んだら、身体の中のたくさんの構造は、宇宙との接続を失ってしまい、生きている人の助けを借りることで、天人合一(てんじんごういつ)(天と人が一つになること)その道を開拓することができます。科学では、死体を解剖して無数の小さな塊にして研究するもので、宗教では、かえって総体を通じて研究しています。これは、なぜ科学は生命学を理解できず、死体学しか理解できないのかという原因なのです。科学は生命学とは関係ありません。つとに五千年以前に、「黄帝内経(こうていだいけい)」(漢方医学の古典の一つ)は天人合一の学問を究明しましたが、今日の科学は、それを証明することができないのです。科学の手法としては、分析を通して研究しますが、宗教の手法には、かえって直接に生命をもって関ります。今日の科学は絶えず昨日の科学を否定するものですが、今日の宗教は、かえって五千年前の宗教成果を確かめているものです。このように、五千年前の宗教は既に生命学の源を尽くしたと証明できるでしょう。 知識はこれまで、その内在の核心に入るすべがないのですが、ある段階で知識はあなたを導いて、その核心に近づくことができます。これは、なぜ宗教研究者が、これまでその核心に入るすべがなかったという原因です。道は外部から来た知識ではなく、知識は無理すれば道の外郭の影と言えますが、それは知識はまだ、頭脳すなわち思惟の部分に属していて、内在の源は、思惟によって得られるものではないからです。頭脳はその核心に対して、ゴミであり、収集されたものは、ヒマラヤ山のように多いのですが、必ず頭脳を閉じて、いや、六根すなわち眼、耳、鼻、舌、身、意のいずれをも閉じたのち、初めてその内部の核心に入れます。あなたはその核心に入ったら、道はずっとあなたに開け放して、あなたを待っていたことを発見し、ただ、長い間、あなたはずっと頭脳の遊戯を楽しでいたので、自分が知ったその僅かな知識で、門外に閉め出されていたのです。即ち「所(しょ)知(ち)障(しょう)」(知られるべきものへの妨げ)です。 宗教も科学的であるといえるのは、それは宗教の外郭を示しているだけといえますが、宗教の核心は、科学的なものではなく、哲学的なものでもないのです。もしかしたら、一万年を経て、科学も発達してたそのときに、初めて肉体を超越して独立して存在しているその「もの」を捕らえることができ、その時は、科学も宗教になって、宗教も科学になってしまい、お互いに、誰彼の区別をしなくなります。仮に、今日の宗教を科学と言うならば、それは、宗教が科学によく見せようとするもので、科学に証明をもらいたいとしか言えないのです。宗教はいつまでも科学を超越しているので、科学はいつまでも宗教の核心を証明するすべがないのです。宗教は一万年の歴史があり、科学は数百年の歴史しかないので、百年の経験で、どんなふうに万年の経験を理解することができるでしょうか?科学の核心は理性的なもので、宗教の核心は非理性的なものです。 | ||
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