十.神秘について

十.神秘について

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あなたとわたしが、すなわち宇宙の霊魂であり、宇宙の代表であります!

見聞覚知(感覚知覚のはたらき)と本体は一体であっても、一体でないのです。本体というものは、無体をもって体として、無形無相であり,見聞覚知がすなわち本体の用(働き)であり、用から本体を知ることができます。しかし眼で本体を見ることができず、ただ霊明の中のその僅かな覚知を用いて、本体を悟ることができます。

一切のものごとは、ことごとく本体から自然に出たもので、そのすべての現象は、ことごとく本体の顕現です。本体は現れても未だ現れず、因縁によって生じ、生は即ち不生であり、縁は即ち生であり、生は即ち縁であります。

仏を求めるならば、見性せねばならず、性(しょう)(不変の本質)はすなわち仏であり、性はすなわち心であり、心はすなわち仏であり、性は諸仏の心と同じであり、心と性は一体で、不二であります。

自性は虚空のようで、無形無相ですが、妙有(絶対の有)が生じます。生も無生であり、それは人の見聞覚知の助けを借りて、自身の妙用(すぐれた働き)を現します。用も無用で、ただ感じては通じ、機に従って物として応(こた)え、これを用いれば所有して、その後は無くなります。


下無大地上無天、水無波浪火無煙。
眼観形色内無有、耳听塵事心不揺。

【書き下し文】

下に大地なく上に天なし、水に波浪なく火に煙なし。
眼は形色を観れど内に有なし、耳に塵事を聴けど心揺れず。

【意訳】

意識は時空を超越してしまい。あらゆる物事と溶け合って、いまは一体となっている。俗事を見聞きしても心は揺れない。
皆様は、能弁に何を語るでしょうか?

本来面目は存在しない処はないが、決して身体だけに存在しているものではありません。我執が消えたのち、まわりのすべては、本来面目であり、山河大地は、すべて如來であります。

身体を忘れなければ,真我は現れることができず、人々がよく言っている「我(われ)、我(われ)」は、いずれも身体を指しているもので、まさに身体のその偽りの我に執着しすぎてしまうから、その真我を忘れてしまったのです。実際には、真我は何ものにもなることができるし、何ものになっても恐れないので、それを変えることができないのです。喜怒哀楽は真実の我ではないのですが、真我から離れないのです。水は氷ではなく、氷は水であり、また水ではなく、水を離れれば、氷はないと言えるでしょう。真我は一種の存在であり、一種の知覚であり、一種の照見であり、真我がなければ、身体もまた不用品になります。真我は知るものであり、身体は知られるものであり、真我は運転手であり、身体は車です。

身体は修行のもっとも大きな障害であり、一途に証果に達した時に、初めて完全に身体を転変することができます。心の働きがひとたび始まれば、転変しなければならず、心の働きが転変しなければ、まったく修道とは言えないのです。

化身は、決して意念(心に念じ考え、思うこと)によって変わってきたのではなく、修行の段階の高層においては、気も使えず、意念も使えず、すなわち妄念が消えたのち、真心が現わす働きなのです。すなわち真空の後の妙有であり、さきに八識(五感や深層意識)が識を転じて智としたのちの妙用であります。大まかに言うと、祖師禅の多くは、法身を見つけたら、一段落と言えます。如來禅は、むしろ三身(法、応、化)を具足して、初めて円満とします。冗談に言うと、教主と成りたくない人は、化身を修得する必要がないので、法身の仏さえ証していれば、それだけで解脱といえます!

仏法とは、決して経典中のその僅なものだけではなく、三蔵十二部経典とて、仏法の十分の一さえも説いていません。それはただの仏法の初期段階であり、そのものではない「もの」には、千の比喩でも、万の比喩でも、言葉を用いても、そのものを完全に比喩できるすべがなく、世間の言葉で、終始してそれを比喩していますが、絶対にそれではないのです。言(ごん)語(ご)道(どう)断(だん)、心(しん)行(ぎょう)処滅(しょめつ)ののち、その隔たりようは、雲泥万里(うんでいばんり)であります。釈迦牟尼が、その源に到達せられたのは、肉体に依って到達したのではなく、三摩地に在るその真我が到達したのです。

宇宙(三界)には、数え切れない空間があって、各空間ごとに、すべて衆生がおり、しかもそれぞれ自分の方式によって生きています。欲界にいる衆生は、肉体を備えて、色界に生きている衆生は、光の形態をもって身体としています。無色界にいる衆生は、光の体さえもないので、深く微妙な禅定の中に在って、心識の方式をもって触れ合っています。お互いに、思い念じるだけで、すぐに通じ合えます。全ての宇宙は、無色界の衆生に対して話せば、距離はなく、宇宙はただ心識の中にあるだけです。欲界天にいる衆生の性交は、肉体を用いて行い、色界天では、光の体をもって行っています。無色界においては、魂で行い、思い念じるだけで、性交が完了してしまうのです。

入定しているのは、決して何も知らないことではなく、真の定は、一淵の清水のようで,一輪の明月が水に映り、くっきり、はっきりしています。何も知らない定は、とっくに外道の定に落ちてしまっているのです。無記(明白でないこと)の定と断滅(滅すること)の定は、百年に渡って定に入っても、悟ることができないので、それは枯れ木や石ころとはどこも違うところがないのです。真の定とは、分別なく作意もなく、依らず頼らずの同一体です。

伝統的な仏教では、これまで人体のエネルギーと修道との関係を説き明かしていないのですが、仏教の戒律を厳守すれば、自ずとこのエネルギーが含まれています。六神通の中にある一神通が、「漏(ろ)尽(じん)通(づう)」です。この漏尽は、生理上の無漏を証したことだけを暗に指しているだけでなく、三界の無漏を証したことも指しています。またこの漏が止まらなければ、明心見性(みょうしんけんしょう)(仏性を明らかにすること)や三界を超越したいと思っても、それは妄想を語ることになります。「楞(りょう)厳(ごん)経(きょう)」では、エネルギーを菩提(悟り)の種と暗喩しています。「菩提の種を漏失して、諸善法を修行しても、悪魔や邪鬼となる」と述べています。人体の下部は、精のエネルギーとして、中部は、気のエネルギーとして、上部は、光のエネルギーとしています。生命は生命力から来たもので、生命力はまた生命質から来たものです。この「質」は光であり、菩提の種であり、それは人体の脊椎の最も下に潜んでいます。それに従えば、凡夫で、逆らえば、仙人になります。私が生まれ、死ぬ門戸なのです。何人が目覚めて、何人が悟ったのか、仮に、この一筋のエネルギーを覚醒させ、かつそれを逆流させれば、そこで開悟の望みは出てきます。覚醒させたのち、それを降伏(ごうぶく)することができなければ、依然として凡夫です。人体には、もともと精子がなく、エネルギーと元気(自然の気)だけがあります。欲望を起こしたことで、元気を基礎にして精子に落ちぶれてしまい、一旦、精子になれば、放射しなければなりません。いわゆる、エネルギーを修練して上げるのは、元気のことを指しますが、精子ではありません。精子は消えてしまわず、漏れてしまうだけです。もしも成仏はそれに依るものだと思うならば、邪見です。それはただ修行の道具にすぎません。

多くの人々が、仏国(極楽や浄土)に生まれることを望まずに、また人になって、人間界の生活を享受したいのなら、それもいいことでしょう。仮に、臨終時に中陰身(現在の肉体を離れて、まだ別の身体に入っていない中間の状態を中陰身という。通常は一塊の光であり、生きている人の肉体から出たのを神識(じんしき)(魂)といい、死んだのちを中陰身という)が自分の一存で決めることが出来れば、天界や人間界を、あなたは自由に選ぶことができます。自分の一存で決められないと、やはり業力によって転生しなければならず、自分の定力或いは念力に従って転生して行くのではありません。中陰身は、生前において、人道の標識が何かを識別できなければなりません。中陰身は、まわりのものごと、畜生道や仏道の標識が見えます。人道の標識は黄色であり、畜生道は青色であり、地獄道は黒色であり、仏道は黄白色すなわち金色の光、あるいは極めて明るい光です。途中のさまざまな形や色はきわめて複雑なので、もっともよいのは、明師によって引接していただくのが上策でしょう。もし、明師が不在か、或いはその場にいない場合は、一心不乱に仏の名号を念じ、或いは明師の名を念じれば、いずれも中陰身に相応しい高い境地におかれて、絶対に落下するはずはないのです。

神と仏は存在しないのではなく、あなたが、必ず内在に深く入り込んでこそ、ようやく、それを見つけることができます。内在の核心に入っていれば、源が見つかり、あなたはすなわち神と仏であり、神と仏とあなたは無二であり、別のものではなく、あなたと仏とは、決して二つの個体で構成されたものではなく、ひいては全宇宙と、仏とあなたとは一体なのです。あなた以外に、それ以上なにもありません。しかし、あなたも「無我」であり、あなたの中に自分の個体の存在は見えず、ある種の存在だけ、すなわち総体的な存在であることを発見します。総体はある種の空無であり、空無もある種の存在であり、ある種の無上の力の存在であります。この一切に達するには、必ず外界への追求を放棄することで、初めて源に深く入り込むことができ、本来面目に会えます。

実際には、あなたは内在の修行に深く入り込むすべがないので、そこで外部の修行、すなわち気を修し、脈を修し、明点(霊光を出現させる修行法)を修しています。もしかしたら、ある日、あなたは外部のすべてを探し求めたのち、一つの極限に入っていて、また振り返って、内部に探し始めるはずです。仏教では「返観して自性を観じ、返聞して自性を聞く」と説かれています。内部に一つの極限を観てこそ、それも外部に向けて観ることになります。内や外はもともと一体であり、一枚のコインの両面みたいなものです。錯綜している俗世界にいれば、頭脳の中はあふれるほど詰まっていて、すでに「爆発」しそうになっています。だから、古来の先師たちは、決って、外部の錯綜している物事を放棄して、内部に探すように主張しています。果たして、定力のある人には、十字路で修行しても成功を収められます。錯綜している外部の環境があなたを邪魔することができなくなったら、その如如不動のものが初めて現れてきます。あるいは山の洞窟で、その如如不動のものを修得したのち、再び十字路に来て、人間界で自在に楽しんでもかまわないのです。

無始以来の本来面目は、内にもなく、外にもないのですが、存在しない処はなく、無い処はないのです。どこにも存在しているからこそ、人々は本来面目を忘れてしまったのです。お金がとても少なければ、人々は常にそれを覚えています。少ないものこそ、人々にその存在を覚えさせ、人々はそれにあやつられます。仏性は久しくあるもので、ずっと存在していて、かつ真実のものであり、いままでに消えたはずはなく、あまりにも久しいものは、人にあまり新鮮味を感じさせず、天地のように、永久に存在し続けたのち、人々は自然に仏性を忘れてしまったのです。お金は毎日入手できますが、毎日にそれを守らなければならず、そうでなければ消えてしまいます。お金は究極的な物ではないので、行き来するはずで、頭脳にとっては、行き来するものはもっとそれに適合します。仏性は釈迦牟尼にとっては、いささかも多くなく、物乞いにとっても、いささかも少なくないのです。多くも少なくもないものは、だれがなお、それを追求していくのだろうか?お金はむしろまったく逆で、富める人にはあり、貧しい人にはありません。金銭は比較することを生じ、仏性は比較する必要がなく、人はだれでも平等です。金銭は極み無く、制限も無いのです。およそ、お金を追求する人はだれでも、その苦しみも極み無く制限も無いのです。大まかにいうと、物質は限り無く、物質を追求することは、その苦しみも限り無いのです。

世界のあらゆる宗教はいずれも、神様は最高であり、唯一無二であると言い、人を奴隷に比喩して、人は何ごとも神の言うとおりにしないと、神様が致命的な災難をおこすと説きます。仏教だけが人類に本当の尊厳を回復させました。これだけではなく、もろもろの動植物への尊厳も含まれています。釈迦牟尼はこう語られました。「大地の衆生はだれでも如来の智慧や徳相が具わっていて、だれでも成仏でき、だれでも本来は仏であり、六道の衆生はすべて仏性が具わっています。しかもすべては平等な仏性で、私が達成できたものは、衆生はだれでも達成でき、この今に衆生が成仏できないのは、妄想や執着のためです。」仏教だけが人類を中心にすえています。釈迦牟尼だけが人類をもっとも愛しています。そのほかの宗教は、人はだれでも神になれるとは、いまだに話したことがないのです。神の言われたことさえ聞けば、神殿に入れますとだけ言っています。しかも人はだれでも神より一段低いのです。

あなたがどのように行うにしても、すべて同一のエネルギーを使っています。愛することや恨むことは同一のエネルギーで、天界や地獄に行くのも同一のエネルギーで、嬉しいことや怒ることも同一のエネルギーです。体の中に、一つのエネルギーだけがあり、さまざまに変化することができ、ありとあらゆる物事に使われます。内在のエネルギーは一つの統一体であります。愛する時に、必ず恨みのエネルギーを伴っています。そうでなければ、あなたは愛に深く入り込むすべがなく、さもなければあなたの愛は作り事であります。愛が深ければ、恨みも深く、恨みから、あなたの配偶者に対する愛の程度を計れます。真実の愛には、必ず真実の恨みがあり、真実の恨みは、自分自身の体験からきたもので、うわさ話を聞いたからではありません。

体内のエネルギーは、正面から全て有りのままに現れることはめったになく、逆の場合には、かえってより良く全て有りのままに現れるようになります。静心によって成仏でき、手に屠殺用の包丁を持っていても、成仏できます。それらは同一のエネルギーから来たものです。これがなぜ成道した人は子供のようなのかと言うと、子供のエネルギーだけは全て有りのままのものだからです。泣くと言えば泣き、小便と言えば小便をします。全て有りのままのエネルギーを、一個所に使えば、一切を成就することができます。覚えておくべきは、成仏は子供に属する特許ということです。

なぜ「道」は修行がもたらしたものではないのか?それは元々でき合いのものなので、いわゆる努力も、頭脳に即応しているだけであります。頭脳が変わったのち、道も自然に現れてきます。頭脳の転変は、いくつかの方法を必要としますが、静心は頭脳を目指し、頭脳は静かさを必要とし、すべての方法は一種の設計であり、一種の手段であります。道に入る前に、ある程度の努力が必要であると言うのは、頭脳にとって必要なのです。道そのものはでき合いのものなので、あなたは、それをただ楽しみに待つだけです。それはひたすら台所であなたを待っています。台所に着くには、台所に入るには、僅かでも距離があるために、あなたは努力して入ることが必要です。修行があるというのは、外部の距離を言い、修行が不用というのは、内在のでき合いのものを示しています。えてして修行の初心者は、どうやってリラックスするか、放下するかを知らず、そのために上師はあなたを修行に精進させ、一生懸命に励まします。上師は、努力することは道の本体であって働きでなく、ただ道に入るには一つの計画、すなわち努力が必要と分かっています。頑張りとおして、行き詰り、耐える力もなくなり、もはや崩れ去る一歩手前に、心身には突然に逆転の急流があり、すなわち生命のもう一つの別の面に入り、すなわちリラックスすることと放下することになります。この一刹那で、完全に仏性を一見することができ、さらに入って行きます。即ち古人が話される、有為から無為に入ることです。仮に、ある一人がどうやって止まるのかを知らなければ、そこで上師は彼に、懸命に走れ、と言います。走りがあれば、止まりがあることを意味しています。
成功と失敗はただ瞬間の輝きだけであり、表面のものによって、内在の霊性まで影響を及ぼしてはならず、あの知るものと知られるもの、照らすものと照らされるもののいずれも、修行によって消し去らなければなりません。全ての内と外は一面の明鏡のように、表面のものごとは映像のように、はっきり鏡に映しだし、来るにまかせておき、去るにまかせておき、来るものが何であれ、そのまま鏡に映しだします。自分に固定した先入観があってはならず、自分は必ず空無になること、無我になることです。無我になったのに、まだ万物が自分を邪魔するのを恐れるのだろうか?

まわりの環境を責めてはならず、まわりの環境を捨ててはならないと覚えておいて下さい。まわりの一切はあなたを助けて成功させるものであり、まわりの一切は、全てあなたが使うためのものであり、外部のものに左右され、変ってはいけないのです。定力が足りなく、ものごとに左右されているのは、内心にある占有欲がまだ消えていないからです。我執を捨て去って、無我になったならば、ダンスホールに居ても、行動は自在にでき、無我の人は聖者なので、諸仏や菩薩とは同一体であります。

詩の境地は既に宗教の外郭に近づいていますが、終始して、宗教の核心に入ってはいないのです。詩の外郭は非ロジック的(非論理、非論法的)なものであり、頭脳を超越したものですが、ただ詩の核心はまたロジックの範囲に属して、ロジックを突き破れなかったのです。宗教の外郭はロジック的なものであり、科学的なものですが、ただ、宗教の核心はロジックに属していないのです。ロジックは想像することができ、宗教の核心は考え出したものではないのです。詩の外郭は考え出したものではなく、さらに作り出したものではなく、作り出すことができるのは、良い詩とはいえず、詩の核心は、また頭脳の産物、すなわち想像したものです。

宗教の核心とするところは、言葉や文字で表現するすべがないのは、その核心の部分は頭脳の範囲に属していないからです。およそ、頭脳の産物は、すべて頭脳で表現できます。核心は、必ず核心の言葉で表現できます。だから、仏教の経典に、百以上の用語があり、その核心を表しています。すなわち真如(しんにょ)、本性、実相般若(じっそうはんにゃ)、本来面目……などがあります。例えこのようであろうと、表現法はやはり的確でなく、ただそれに近づいているとか、似ているとかだけは言えます。例えば、道の道(い)う可(べ)きは、常の道(みち)に非ず、名の名づく可きは、常の名に非ず、と言うべきであります。やはり科学、哲学、詩学および宗教は共通点があるし、異なる点もあるからこそ、互いに排斥し、互いに吸収しあっています。ある段階では、それらは似て非であり、ある段階では、また非に似ています。天地の間のありとあらゆる物事は、すべて次のようになっています。正と非、良と否、男と女、正と邪は、永遠に一緒にいて、永遠に互いに相手を引き立て、相手を強くさせ、相手をよりよく際立たせます。

超越というこの二文字は、頭脳にとって困難であり、相当大きな危険を冒すことで、ある概念を超越することができます。生活は一つの未知から、もう一つ別の未知に入ること、頭脳は未知に対していつも憧れて、かつ恐れています。未知は頭脳で構築された塀であり、最後には、頭脳がこの塀を超越してゆきます。人の一生はおよそ、構築しては壊して、壊したらまた新しく構築して……このようになっています。

身体から離せるその無形無相のものは、影も形もないのではなく、それは自由に行動でき、変化を予測できず、それは本体ではなく、本体の用(働き、作用)だけであります。あれこれ修行し、あれこれ悟ろうとしても、弄(もてあそ)ぶのはその「用」だけです。「用」を修行し終えたならば、行わない事はなくなります。

万行が至る処は、正法であり、天界であります。天界、地獄、正法、末法はいずれも、あなたの心で作られるものです。

天地が生まれる前に、聖者は道の中にいます。また天地が生まれたのち、道は聖者の中にあります。

日月はそれ故に光を放し、時空はそれゆえに活力があり、皆様は能弁に何を語るでしょうか?


聞声悟道、見色明心。

【書き下し文】

声を聞き道を悟り、色を見て心明らむ。
皆様は会得できるでしょうか?


眼前月出、昼夜難分,空中仙楽、虚空粉砕。

【書き下し文】

眼前に月出て、昼夜わけ難く,空中の仙楽、虚空は粉砕す。

皆様は見えるでしょうか?

真の愛、真の道、真の法門はいずれも言葉で叙述するすべがないのです。言葉はすでに「実相(じっそう)」(真実の本性、常住不変の理法)の第三層の投影(第一層は自性で、第二層は心霊である)であり、本当に道と愛の中に入れば、言葉では形容不足で、ただ一つの総体の存在、一つの如如不動の存在だけを感じとれます。

大乗仏法のもっとも高い境界は、「無住、無捨」(執着なく、捨てることなく)なのです。

仏性は成長する必要がなく、もともと円満であり、中どのような智慧でも具えています。

仏と上帝は、決して物ではなく、或いはある種の個体でもないのです。すなわち宇宙に存在しているもっとも高い力の代表であります。この力が来ると誰でも抵抗しようがなく、因縁の和合により、この力に巨大な効果が産まれます。宇宙のありとあらゆるものごとは主宰されるものでもなく、自然なものでもなく、すなわちこの力の因縁和合の産物であります。この力が来るならば、事を成し遂げることも、物を破壊することもできます。悟った明師は誰でもこの一筋の力を得たのですから、明師は仏であり、上帝であると言ってもよいのです。凡俗な人は、この一筋の力を得ていないが、決して彼らは、この一筋の力を失っていると言うべきでなく、この一筋の力を把握することができないだけと言えます。この一筋の力は一種の存在であり、存在しない処はないのです。六道にいる衆生はだれでも、この一筋の力が具わっています。誰でも、それを開発することができ、だれでも仏に成り上帝に成ることができます。

宇宙のありとあらゆるものには、ただ一つの源があります。哲学では、根本実体といい、仏学では如来といい、宗教では霊魂といいます。

仏者とは、すなわち悟った衆生であり、ただ生命の本質と宇宙の起源を知っただけなのです。

宇宙のありとあらゆる生命やものごとは、主宰されるものでなく、自然なものでもないのです。すなわち因縁和合です。

涅槃とは、生命の本質を本位に戻し、それの本来面目を復元すること、まるで氷が溶けて水にもどるようであります。

死ぬことは、ただ自分自身のこの一塊の光が、宇宙の大型の総体の光と溶け合って、一体になることです。生命は死亡を以て結末とするのではなく、死ぬことは、ただもう一つ別の段階の生命の始まりにすぎません。

三摩地は、一種のもっとも奥深いもの、もっとも喜悦するもので、一心を万境(あらゆる物と同一体になること)に置くことができ、しかも全て散乱した境地ではないのです。

三摩地に在るとは、一種の死亡(頭脳のこと)の体験でありますが、この体験は決して苦しみでなく喜びです。

仏門で言う「三界唯心(さんがいゆいしん)」(宇宙の全ては心が作るもの)は真実であります。たくさんの境地、たくさんのものごとは、すべて唯心(心の存在と作用)で想像して来たものです。想像そのものも一種の創造力であり、一種の潜在力だったのです。この種の力が存在しないで、どうして想像が可能でしょうか?癌の持病者が、病院の診断で死の宣告をされにのに、素食(そじき)(菜食)し、念仏し、静座することによって、癌を治した人がたくさんいました。これこそ、心の力の作用ではないでしょうか?
真に仏と通じるとは、あなたの身近な人と通じることです。実際には、独立して存在している衆生は一人もなく、すべては互いに関連し合っています。

無論あなたは信じても、信じなくても、修行しても、しなくても、実際には、あなたがしているすべては、全部宇宙と繋がっていて、互いに関連し合っていて、宇宙とは一体となっているのです。宇宙はもともと「一」であり、一つの総体であり、あなたの心念(心の思い)が,揺れると、全宇宙も揺らぎます、ただあなたはこれに気付かないだけであります。

肉体は、ただ滅しない「真我」の道具にすぎず、肉体と真我の間に、もう一つの身体が挟まれていて、気体でもなく、光体でもなく、また光体にも似ています。それはやはり、伝統仏教で付けられた名称が相応しく、報身(肉身)、化身(中間の気体に類似する存在)、法身(真我)即ち本体なのです。

普通の人に見えた多くのものは、中間の「気体」の身体であり、まったく本体の中まで入っていなかったのです。法身が解決しないと、工夫円満とはいえません。錬精化気(れんせいかき)によって充実するのは、この中間の「気体」の身だけなのです。この「法身」は、まったく精、気、神によって充実できるものではなく、それはもともとでき合いのもので、昔から今まで、永遠に円満なでき合いのもので、仮りつくろいの必要がありません。

「真我」は無形無相でありますが、決して影も形もないのではありません。さらに、それは観られないものでもないのです。それを観ようとすれば、頼るのは煩悩と妄念だけであります。強烈な煩悩と妄念がなければ、真我を観るすべがないのです。風の形象を見たければ、必ず空気を流動させます。風が吹き荒れて、石ころが飛び、木が揺れ枝がそよいで、この時初めて風の形を見られます。風はその形を以て、自分の存在をあなたに見せているのです。あなたは煩悩の助けを借りて、真我を見とどけたのち、初めて、煩悩と妄念は、もともとは菩提であり、もともとは真我であり、煩悩を取り除けば、菩提もないことを明確にしてしまいます。

仏と魔は、一念の違いであり、紙一重の間隔であり、実際には、差もなく間隔もなく、ただ、両者の現れる形式が違うだけであります。何が仏の力かを理解するために、唯一のもっとも速い近道として、魔の力の助けを借りて現れるのは、人々はえてして、反面からのほうがより真理を理解できるからです。力(りき)んで、魔に対抗するのは、仏の力を分散させるものです。常に修行する時には、必ず一尊の仏の姿を心に抱いて待っていると、一旦、自分の想像にぴったり合わない境地が現れた時に、そうなると、目の前に発生しているすべての境地は、魔の境地と思ってしまいます。心を空にして、静座し、何も求めるものがなければ、目の前に現れた一切は、いわゆる魔でもなく、仏でもないので、それはただある種の存在する力にすぎなかったのです。

真理は、永遠に自己矛盾するものであり、真理は前後左右すべてに配慮しているからで、その中に全てが具っているからこそ、真理と言えるのです。煩悩と菩提は共存し、仏と魔は共存し、金と砂は共存し、真実と虚仮(こけ)も共存しています。

あなたは元々わたしの中に存在し、わたしも元々あなたの中に存在しています。あなた、私、彼、彼女、それは元々に互いに存在し合っています。一人が修道すると、衆生も利(り)益(やく)をこうむり、一人が成道すると、天地鬼神も利益をこうむります。

親愛なる読者の方へ、万行はあなたに千古の秘密をお伝えしましょう。あなた、私、彼、彼女、あの「真我」は、これまで、輪廻したことはまったくなく、地獄に落ちたことはまったくなく、ずっと神聖かつ純潔であり、ずっと円満であります。またいわゆる輪廻が示しているのは、あなたの理想、あなたの欲望、あなたの癖、すなわち宗教で言う「業障」なのです。ある生命が死んだのち、彼、彼女、その「真我」即ち本来面目は、自動的に広大な本覚の海に溶け合い、聖者であっても、遊女であっても、源へ戻れるはずです。世間に留まっているのは、あなたの欲望だけです。欲望はまた輪廻して、また転生して、欲望を満足した時に、輪廻がなくなります。凡夫の欲望は永遠に満足しません。ただ悟りを開いた聖者のみ、欲望がないのです。

宣教師たちが天国の美しさを標榜するために、なんと、この世は地獄であるといっているのは、ひどい話です。

宣教師たちが自分は神の生まれ変わりと公言して、大衆の大量の財産を騙し取っているのは、情ない話です。

信者たちが宣教師の「世界の終焉が来ました」という怪しい話を聞いて、惑わされて、仕事を放棄し、財産を売り、山に入って避難するのは、可笑しな話です。

世界の終焉は永遠になく、いままで、終焉を迎えたことはありません。

世界には常に天災や人災があり、いままで一度も止(や)んだことがなく、今後も止むことがありません。

人のいるところに天界があり、人のいるところに地獄もあり、人のいるところに神がいて、人のいところに霊鬼もいます。

世間には焼香して霊鬼を呼ぶという方法がありますが、話によると、それによって自分の主人、すなわち真我を見つけられると言います。霊鬼を尊敬すると霊鬼と応え合い、仏を尊敬すると仏と応え合い、生前にだれかと応え合えば、死後はそれに応えて行きます。霊鬼がどうやって、あなたに真我を見つけさせるのでしょうか?ほかでもなくこの霊鬼は、真我を見つけてはいないのです!

すべての神通力は「無我」の階級に戦勝することができません。また「我執」の強い人は、もっとも業障を引き起こしやすいのです。

修行中に現れた境地の多くは、すべて幻覚であって、それはあなたが真理を渇望しすぎて、かつ、以前に経典に記載されていたさまざまな場面が、あなたの頭脳に深く刻まれていたからです。たとえば、ある異性を非常に渇望していれば、夢の中で会うことができ、中脈が通じることを渇望していれば、そのようになって、体に気機の蠕動が起こるのは、それは、頭脳は幻覚を作る本能を持っているからです。

現行の一派の修行者は、あの「観照者」を修得したならば、大きな手柄をたてたと思っています。観照者を修得しただけでは、決して功徳円満ではなく、せいぜい霊性的な修行を開始しただけであり、まして、本当にあの観照者を修得できた人はもっと少ないのです。観照者を修得できれば、「無師智」(教えられずに得た智慧、悟り)を証したといえます。その後、上師から離れて独立して修行ができます。観ることが出来る心があり、観るものがあるのに、どうして円満といえるでしょうか?依然として見聞覚知の範囲に属しています。

修行の次第は、まさに観、行、照、度、空、無を経て円満に達するべきです。

道の道(い)う可(べ)きは、常の道に非ずとは、どんな意味でしょうか?果たして、文字や言葉によって、悟道ができれば、成仏できれば、仏教の研究者、科学者、哲学者は既に成仏しています。学問では道を論じるに足りず、人の受け売りをして、他人の家の宝物を数えるようであれば、道にとってどんな利益があるでしょうか?まして、そのもっとも根本的な実相は、言葉や様々な思想を超えているものです。老子から恵能まで、実相を描くことのできる人は一人もいませんでした。すべては人が水を飲むように、冷たさと温かさは自分しか知らないのです。その理由は、互いに愛し合う男女は必ず同衾しなければならないように、禅は言葉で表現することができず、身を以って証さなければならないので、経験を必要とします。

なぜ法師は禅師と弁論するたびに、勝つことができないのか?法師は単に禅学の研究者であり、悟った禅師の悟道思想と修道の過程を研究しているものです。禅師は自ら体験し、努め励んで実行して、道を進んでまた帰ってきたので、本地(ほんじ)(本もと、心性)の風景を身をもって経験した人であります。法師が得たのは間接的な資料ですが、禅師が得たのは直接手に入れた資料です。真如実相、頭脳思惟、文字言葉など、単に文字から着手して修行する者には、絶対に実相の最終点に至ることができないのです。そのうえ現在の修行者は誰でも人の受け売りをしています。悟った人の受け売りをして、仏、イエスの受け売りをしています。

理論は西洋の哲学のようで、依然として思惟の範囲に属しています。依然として頭脳の作用から離れず、数千年以来、西洋哲学はずっと頭脳の思惟によって、宇宙のあらゆるものの本体を解析していこうと企ていました。しかし終始して、本体に証入(悟りの境地に入ること)出来ずに、かえって本体からますます遠く離れてしまったのです。その根本の原因として、西洋哲学は頭脳を以て研究し、禅法は頭脳を捨てて、直接に本体実相の中に入って行くからです。前者は思惟によるもの、後者は思惟を捨てるものです。
どんな宗教でも、人はだれでも、道と通じることができなければ、あなたは外道なのです。

人はだれでも仏性が具わっていますが、ただ仏性を理解せず、仏性が見えない衆生はもっとも貧乏な衆生です。皇帝の二人息子のように、二人ともそれぞれ父の財産を得ましたが、その一人はその財産を見つけました。もう一人はそれを見つけられずに、貧乏な息子となりました。万能の宝蔵とは仏性です。

日ごろ仏を学ぶ人の多くは、思いの上で「真空妙有」の道理を感悟しても、実際の境地には、真空が現れていないばかりか、さらに妙有も生じてなく、煩悩が出て来たときに空(から)にしようもなく、智慧を必要とするときに、妙有も出てこないのです。

道理を悟って、事に当り通用しなければ、悟っていないのと同じです。もし理で本当に悟ったなら、事に当り必ず通用できます。

釈万行

二〇〇〇年八月に三聖洞に止住

 


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